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東京地方裁判所 昭和42年(行ウ)26号 判決 1969年12月23日

原告

須藤保吉

被吉

東京都教育委員会

主文

(一)  原告の請求を棄却する。

(二)  訴訟費用は、原告の負担とする。

申立

原告の求めた裁判

(一) 被告委員会が、昭和四〇年五月一二日付で原告に対してなした免職処分を取り消す。

(二) 訴訟費用は、被告委員会の負担とする。

(三) この判決は、前項に限り仮りに執行することができる。

被告委員会の求めた裁判

主文と同じ

主張

被告委員会の主張

一、原告は、被告委員会より、昭和二七年五月一日公立学校教員を命ぜられると同時に葛飾区立宝木塚小学校教諭に補され、その後昭和二九年四月一日台東区立大正小学校教諭に転補されたものであるが、昭和四〇年五月一二日地方公務員法第二八条第一項第一号及び第三号に該当するものとして免職処分に処せられた。

二、原告は、右の処分に対して昭和四〇年七月六日東京都人事委員会に対して不服の申立をしたが、同委員会は、昭和四一年一一月一七日原処分を承認する旨の裁決をなしその裁決書は、同月三〇日原告に送達されたものである。

三、原告に対する処分理由は次のとおりである。

原告は、昭和二五年二月二〇日江戸川区立松江小学校を依頼退職後、昭和二七年五月一日葛飾区立宝木塚小学校に教諭として採用され、その後昭和二九年四月一日台東区立大正小学校に転任して教職にあつたものであるが、その間、児童、同僚教師、父兄等に対して数多くの事件をひきおこし、学校の運営や児童の教育に対し、著しいゆがみを与えて来た。これを次に例示する。

(一) 昭和二七年五月二日の午前八時頃、京成電鉄、御花茶屋駅において、葛飾区立宝木塚小学校第三、四学年の校外学習に出発する児童を引率していた原告は、右校外学習に参加するため同駅に至つた原告の担任学級である沢田文江とその母親に対し、学校に集合しなかつたことを理由にどなりつけ、その同行を拒んで帰宅を命じた。そのため右沢田母子は校外学習に参加することができなかつた。

(二) 同年一〇月二二日頃の午後三時過頃、同校運動場において、テニスの練習試合をしていた原告は、その審判に当たつた同校教諭峰好輝が判定を誤つたとて俄に憤激し「ぶつ殺すぞ。」等とどなつてラケツトを振りかぶりながら同教諭を数十メートルにわたつて追い回したが、同教諭が校舎内に姿をかくし、かつ同僚教諭が原告を制止したので暴行を遂げるに至らなかつた。

(三) 同年同月二八日原告は同校第四学年を引率して新宿御苑に校外学習に赴くことになつていたところその出発の直前である午前八時頃、同校教員室において、お茶をはこんできた同校事務助手塚田満子(旧姓根本・当時一七才)に対し、やにわに「出掛ける前にこんな熱いお茶がのめるか。」とどなりつけ、右肘で同人の下胸部を突いて同人をその場に転倒させ、更に平手で、起き上がろうとした同人の左眼部を殴打して再び同人をその場に転倒させ、同人に治療約二週間を要する左眼打撲内出血の傷害を負わせた。

(四) 同年一一月頃、原告は自己の担任学級(四年一組)の教室において、たまたま担任学級の児童辻野晴子、西野克子の両名が四年二組がよいと洩らしたことに憤激し、右両名に対し「一組におけないから二組へ行け。」と命じて同教室より廊下に追い出しこれを約二〇分余にわたり廊下に放置して授業を受けさせなかつた。

(五) 昭和二八年一月三一日頃の職員朝会の際、同校職員室において、同校校長生沼武雄が、翌日実施が予定されている東京都教育庁指導部の訪問に際し、供覧すべき算数の授業の担当を希望する者をつのるに当たり、原告の外に希望者のなかつたことから、原告の名を挙げて再三希望者の有無を尋ねたところ、原告は校長が暗に原告の申し出を喜ばず、他の教員をして供覧授業を担当せしめようと示唆しているものと解して俄に怒り出し、「おら、やらねえやらねえ、あした子供をつれて宝精工へ見学に行つちやう、やらねえ、やらねえ。」などとどなりちらして、会議を混乱させた。

(六) 同年三月一〇日の職員朝会に際し、同校職員室において、原告は予め同日に実施することにきまつていた国語標準テストにつき俄に反対の意見を表明し、かつ既に決定されていた右テストの監督の割当を無視し、自分の学級はテストはやらせない、やるなら校長か校務主任がやれなどと告げて、右テストを拒否する態度を明らかにしたのみならず、同日四年二組の教室において、予め同組のテスト監督の割当を受けて同教室に来た同校教諭鈴木のぶを教室外に押し出して、同人の右テスト監督の業務を実施させなかつた。

(七) 同年四月一七日頃の午後二時半頃、同校校庭において、原告は自己の担任学級の図工(写生)指導中、これを見ていた同校三年生の児童武藤陸男に対し些細なことで激昂して同人の襟首をつかみ二、三メートルこれを引きづつた上、拳固で同人の頭部を殴打し、更に指先で同人の顔をはじく等の暴行を加えた。

(八) 昭和三一年六月五日頃の午前八時頃、台東区立大正小学校正門附近において、原告は開門と同時に駆け込んで来た児童多数のうちから入江誠(当時六年生)をとらえ、静かに入らないからという理由で拳固で同人の前額部を数回殴打した。

(九) 同年一〇月二二日頃同校職員室において、原告は同校校務主任真下政安より、原告宛に電話があつたが勤務中であるので急用でなければ昼休みに電話してくれるよう依頼したところ先方もこれを諒承した旨告げるや、俄に憤激して校務主任に対し何故すぐ取り次がなかつたのかとどなり、これをなだめた同校校長藤井慎一の胸元をつかんで引起し、校長を起立させて「人権じゆうりんだ、都へ行こう、都へ電話しろ。」などとどなりつけて、校長に都教委に電話することを強要した。

(一〇) 昭和三二年二月初頃、原告は同校職員室において、来室した出入商人秋葉みうらが入口の扉を完全にしめなかつたことに憤激し、同人の額面を数回殴打した。

(一一) 同月五日頃原告は同校職員室において、来室した同校用務員鈴木すみが入口の扉を完全にしめなかつたことに憤激し、右手で同人の首をわし掴みにし、左手で同人の背を押して同人を廊下に突き出した。

(一二) 同年五月の正午頃、原告は同校給食調理室において、給食作業員小木曾千枝子に対し、給食用ハムを余分にくれと要求し、同人に拒絶せられたことに憤激し、同人を数回殴打した。

(一三) 昭和三三年四月一二日頃同校職員室において、原告は同校児童野崎栄子(当時六年生)の左側頭部(耳上)を手で殴打し、同人に頭痛、耳痛を伴う頭部打撲傷を負わせた。(なお、本事実により原告は昭和三三年五月一四日東京都教育委員会より懲戒処分(戒告)を受けた。)

(一四) 昭和三三年六月下旬頃の第五校時、原告は、同校図書室前の流し場が汚れていたことから、図書室前の六年四組の教室に入り、折から授業中の同校教諭大内顕成に対し「この学級に相違ない、やつたのは誰だ、教育が悪いからだ。」などとどなりつけて侮辱し、同教諭が廊下に出て話したい旨要求したのにこれを聞き入れず、なおもどなりつけて授業を妨害した。

(一五) 昭和三六年三月一〇日の同校創立四五周年記念式典宴会場の設営にあたり、原告は、予め校長から図書室及び図書準備室を使用する旨定められていたにも拘わらず、当日手伝いに来た児童の母親たちが図書準備室を臨時に物の置き場所として使用したことから、右準備室前廊下において右の母親たち約二、三〇名に対し、「俺の許可も得ないで準備室をなぜ使つた。この売女ども。おまえらの産んだ子供だからろくな餓鬼はいない。」などと大声でどなりつけて侮辱した。

(一六) 同年四月二五日頃の第三校時開始直後、原告は同校図書室において、四年二組の読書指導中の同校教諭松沢秀俊に対し、図書室前の流し場の蛇口から水が洩れ廊下が濡れていたことから、図書室の入口より、「月給泥棒、こんな教育があるか。」などと罵つて侮辱し、児童への影響を恐れて廊下に出た同教諭に対し、更に約五分間同室前廊下において躾が悪いなどと大声で罵つて授業を妨害した。

(一七) 昭和三七年三月二五日同校卒業式当日の式開始の直前、原告は、式場である同校講堂において、卒業式のためのエレクトーン配線を行なつていた同校教諭荒城義雄に対し、同教諭の担任学級の児童が原告に返還しようとして果さないまま同教諭が預つていた図書を即時自己に手渡すよう要求し、同教諭が式の遅延をおそれ、右配線のすむまで待つてくれるよう懇請したにも拘わらずこれを聞き入れず、多数の父兄の面前で「このやろう待てねえ、すぐ本を返せ。」「こんな式など遅れたつていい。」などとどなりつけ、同教諭の頭に手をかけて突きとばして図書の即時返還を強い、更に校庭等において「大正の先生は皆だらしがない、だから入谷の子は駄目なんだ。」「特に荒城君はだめだ。」などと大声で罵つて侮辱した。

(一八) 昭和三八年三月六日、原告が同校職員室の机上に置き忘れて帰つた同人の手提金庫を、居残つていた同校教諭今井貞夫が見付け、盗難にかかることを恐れた同教諭は同人のロツカーに収納したが、同教諭は翌日ロツカーをあける機会が悪く、また原告からも右手提金庫について何も聞いていなかつたので、そのまま忘れていたところ、同月八日第一校時開始直後、原告は全校生徒に聞える校内放送でいきなり「先生方よく聞け、俺の金庫を盗んだ奴がいる。外部の者の仕業ではない。先生の中に泥棒がいる。出なかつたら警察沙汰にする。」と荒々しくどなり、右金庫をしまつた今井教諭を同校教諭志田時晴であると勘違いしていた荒城義雄教諭から児童を介して手提金庫は同校教頭井嶋竹雄及び志田教諭が知つている旨伝えられるや、直ちに井嶋教頭が授業している六年一組の教室に赴き、児童の面前で教頭に対し、「おい、この馬鹿野郎、泥棒野郎、俺の金庫を匿したろう。警察問題にするぞ。」とどなりちらし、更に職員室に入り、校内放送を以て、「志田先生、すぐおりて来い。」と大声で放送し、居合わせた今井教諭から「須藤先生が忘れて行つたのでしまつておいた。」と告げられてロツカーから金庫を取り出して渡されたにも拘わらず、「俺は忘れない。誰かが出したんだ。」などと、校内放送のスイツチを切らないまま今井教諭らに罵声を浴せ、これに気付いて校内放送のスイツチを切ろうとした同校教諭三弊知子に対し、「馬鹿野郎、切つてみろ、切つたら承知しないぞ。」と腕を掴んで脅迫し、更に教室から立戻つていた教頭を突きとばし、以て、前記各同僚教師を侮辱し、かつ全校の授業を不能にした。

(一九) 同年四月一九日の第五校時、原告は、同校五年三組の児童が担任の同校教諭大内顕成の指導のもとに図書室で自由読書をしていた際、「保科、保科はいるか。」と大声をあげながら図書室にあらわれ、同組の児童保科修に対し、一枚の図書貸出カードを示し、「これを書いたのはお前か。このざまはなんだ、馬鹿野郎。」とどなりつけ、同人の胸のあたりを掴んで引き寄せ、いきなり保科の左頬を平手で強く殴りつけた。

(二〇) 同年五月二二日午後一時五〇分頃、原告は、同校六年三組の児童今泉英邦が職員室前廊下を小ばしりに走つたのを見つけ、同所において同人を叱責し、その際同人の後頭部を拳固で数回殴打し、さらに職員室に同人を連れ込み、頭部を同様殴打した上、これを聞きつけて原告から同人を取り戻そうとした同校校長勝俣長登に対し、「渡すもんか。」とどりながら校長の胸のあたりを思い切り突きとばし、更に職員室の校長席に帰つた校長に対し、「この怠けもの、少しは先に立つて働け、この学校のざまはなんだ。」とどなりちらした。

四、以上の事例に徴して明らかなように、原告はその在職期間を通じ、極めて独善的非協調的で、一時の激情と興奮に我を忘れて衝動的に行動し、上司の命に従わず、同僚を侮辱し、その職務の遂行を妨害し、児童に対しては、これに接するに愛情をもつてすることなく、体罰、暴力を振つて児童の心をそこない父兄やその他の学校関係者に対しても暴行や侮辱的言動に出でてその信を失墜する等学校の運営、児童の教育に著しい障害を与えてきたのであつて、原告の素質、能力、性格等のすべてにわたり、教師として勤務実績が悪く、且つその職に必要とする適格性を欠くものである。

而して原告は毫も反省の色なく、又その欠陥は持続的、本質的であつて到底矯正することができないものであるから、地方公務員法第二八条第一項第一、三号に基づき、昭和四〇年五月一二日付を以て原告を分限免職処分に付したものであり、原処分には何等の違法性も存在しない。

五、勿論本件処分に裁量の範囲を超えた違法もない。

原告の答弁

一、被告委員会の主張第一項の事実は認める。

二、同第二項の事実も認める。

三、同第三項中、原告は昭和二五年二月二〇日江戸川区立松江小学校を依願退職後、昭和二七年五月一日葛飾区立宝木塚小学校の教諭となり、さらに昭和二九年四月一日台東区立大正小学校に転任したことは認めるが、その余の事実は否認する。

被告委員会の主張する処分事由は、全く真実に反するものであり、その詳細は次のとおりである。

(一) 沢田文江さんに対しては、数回校外授業に、行くかどうかを問うたが不参加とのことであつた。お母さんにもお会いしたいと思い、何回も家庭訪問したが会いかねた。当日発車まぎわに来たので、どうすることも出来なかつた。私は連れて行きたかつたが。……「どなりつけた」覚えなし。文江さんは前年度にもこういうことが有つたそうです。

(二) 峰好輝先生の審判は不公平であつたので「審判は公平でなくてゲームが出来ないではないか。」と言つたら、「公平だとか、なんだかんだ。」言つたので「ライン内にボールのあとがハツキリ見えているではないか。」と言つたら「それは違う、眼がどうかしているか。」などと言うので「なにを……。」と言つて行つたら、ネツトをくぐつて反対側に行つたから、私はゲームをやめて引き上げた。「ぶつ殺すぞ。」とか数十メートル追い回したとか、峰先生が校舎に姿をかくしたとか同僚教諭が制止した云々は事実と余りにも相違しています。

(三) 根本給仕さんが、私が校外教授参加児童出欠数を記入して、出ようとした時、後から「ハイお茶。」と言つて持つて来たのとぶつかつたのだ。臂にあたつたので左眼が赤くなつたのか、今でも不思議に思つている。被告の答弁書に書いてあることは捏造記事です。

(四) 辻野晴子、西野克子が四年二組がよいと言つたとか言わなかつたとかは担任児童同志の言い合いで、「二組がよいなら、二組に行つたらよいだろう。」と言つたまでのことで「授業を受けさせない。」なんてことはなかつた。

(五) 都の指導員である根本先生の視察の時で「会議混乱」などはなかつた。……私は何時でも率先して授業を見ていただいたものです。

(六) テストの監督は同学年担任が、かわつてすることになつていたから四年二組は、私がするのが当然で鈴木のぶ先生のことは知らない。……テストを実施し、採点した集計が学校に有る筈です。

(七) 武藤陸男君のことも捏造だ。武藤君が写生している女児数名に砂をぶつかけたのでつかまえようとしたら逃げたので、担任の先生に厳重抗議を申したのです。

(八) 入江誠君は駆けて来て、低学年の児童二、三人をころばしたので「これ待て。」……「六年生として、それでいいのか。」と訓かいしたのです……。週番として当然なことです。「拳固で同人の前額部を数回殴打した」などとは事実無根です。

(九) 電話云々は中傷記事です。

(一〇) 出入商人秋葉云々も事実無根です。

(一一) 用務員鈴木すみさんが、職員室の入口の戸をあけつぱなしにして行つたので、入口に座つていた私が呼び戻して、閉めさせただけのことだ。因みに大正校では「何人と雖も出入口の戸は必ず閉めること」がきまりになつているのです。

(一二) 給食作業員小木曾千枝子云々も、事実無根です。

(一三) 野崎栄子を殴打云々も事実無根です。……それは四年女児が西側の階段を掃除しているのを栄子が邪魔したので、女児が私に訴えに来た為、訓かいをしたのです。昭和三三年五月一四日の戒告処分については履歴書に書かなくともよいと言われたので受け取つたが、今はペテンにかかつたと思つています。

私は「真の教育者は、やらねばならぬことは、誰がなんといつても、実践しなければいけないものだ」と思う。それのみが教育者が世人に示す倫理の基盤だと思つている。……「不作為」の罪だけは犯したくないものです。

(一四) 大内顕成教諭(六年四組)の図書室用の「流し場」の汚れなんか、何回も何回ものことで、てんで先生がついていないもんだから、こうなるのだ。躾以前の問題です。

(一五) 昭和三六年三月一〇日の同校創立四五周年記念式典宴会場には図書閲覧室は使用するが、―準備室は使用しないという約束―「校長との」……であつた。準備室には、その時、椎茸栽培していたので使用されては困るからです。

(一六) 松沢英俊教諭は自分の組についていなかつた。児童は騒ぎ放し「流し場」からは水が溢れて廊下に流れ、びしよびしよであつた。児童が私を呼びに来たので、松沢先生を呼びにやつた。担任が児童をほつたらかして教育が出来ると思うか?否です。

(一七) 荒城先生の卒業式当日やつていた仕事は、前日終つていなければならない事だ。児童に貸出した本は十日前から返還を言い渡しているのだ。先生の頭に手をかけて突きとばした覚えもなし、色々なことを言つた覚えもない。ただ先生が立ち上がつた拍子に私にあたつたのだ。父兄は私には話し易いそうで、色々な問題について、よく訪ねて来るので、先生達の評も出たことと思う。それがこんな流言となつたのかも分らないです。

(一八) 昭和三八年三月六日の手提金庫の件は、私は今でも「故意にかくされたもの」と思つている。あの時、今井先生は私の机で卒業証書を書いていたし、机上に金庫があるわけはなし、どう思つても不思議でならない。私は一度だつて、机上に物を残して帰つたことはありません。

(一九) 大内顕成教諭(五年三組)の受持ち児童保科君のことも全くのでたらめだ。この時も大内先生は図書館にはいなかつたし、余り児童が騒ぐので、先生を呼びにやつたが時間終りにやつて来た。保科君が「新らしい本を何日出してくれる。」と言つたので「お前達のように騒ぐ児には出してやらない。」と言つたのです。

(二〇) 今泉英邦君についても余りにも多くの嘘が書かれている。殴つたこともなし、校長に対し「渡すもんか。」とどなつたとか、胸を思い切り突きとばしたなども事実無根です。

四、同第四項は否認する。

児童は正しく教育されなければならない筈です。私は常に誰にでも、公平無私に訓育し、実践しているのです。私は「国家を憂うる者は教育を憂うるに如かず」との信念を堅持している者です。被告は私を、「独善的とか、非協調的とか、上司の命に従わずとか、その他くさぐさと書いているが、まるで、当たつていないことばかりです。私は教育第一主義を実践している者で。その為には生命を犠牲にしても悔いない者ですが、私の真の「すがた」を知らずして、あしざまに言われると「大いなる怒」を覚えるのです。

「仕事を見てその人を知れ」と言うこともあるではありませんか。

被告委員会の本件処分は、右のとおり全く事実誤認に基づくものであつて違法たるを免れません。

五、同第五項も争う。

仮に、原告の方に非難を受けるべき多少の事由が存在していたとしても、その事由は詢に些細なものであると共に、当然その事由発生の原因をも考慮すべきものであるところ、被告委員会の本件免職処分に正に過大なものであつて、裁量権の範囲を著しく超過した違法がある。

六、以上のとおり、本件免職処分は、いずれにしても違法なものとして取消しを免れないので、本訴請求に及んだ次第である。

証拠

本件記載中証拠関係目録記載のとおり。

判断

原告は、昭和二五年二月一〇日江戸川区立松江小学校を依願退職したものであるところ被告委員会より、昭和二七年五月一日公立学校教員を命ぜられると同時に、葛飾区立宝木塚小学校の教諭に補され、その後昭和二九年四月一日台東区立大正小学校に転補されていたものであるが、昭和四〇年五月一二日地方公務員法第二八条第一項第一号及び第三号に該当するものとして免職処分に処せられた。そこで、原告は、右の処分に対して昭和四〇年七月六日東京都人事委員会に対して不服の申立をしたけれども、同委員会は、昭和四一年一一月一七日原処分を承認する旨の裁決を行ない、その裁決書は、同月三〇日原告に送達されたことは、当事者間に争いがない。

そこで、処分事由の存否について検討する。

成立に争いがない甲第二号証、乙第二ないし五号証の各一ないし四、第七号証、第八号証の一・二、第九・一〇・一一号証、第一二号証の一ないし一四、第一三号証、第一四号証の一・二、証人伊藤幸代、峰好輝、塚田満子、掛礼貢、鈴木のぶ、山崎和子、藤井慎一、大岡章吾、真下政安、鈴木すみ、小木曾千枝子、井島竹雄、勝俣長登、大内顕成、今井貞夫、松沢英俊、荒城義雄の各証言及び後記信用できない部分を除く原告本人の供述の一部を総合すると、次の事実が認められる。

(一) 原告が再就職して間もなく昭和二七年五月中、宝木塚小学校の三、四年生が校外学習に成田方面に出かけることになつており、原告も四年一組の担任として児童を引率してこれに参加することになつていた。一同学校に集合して同日午前八時頃京成電鉄御花茶屋駅に到着したが、原告の担任学級の児童である沢田文江は、時間に遅れて母親と共に同駅にかけつけて来た。原告は、児童やその父兄達の大勢いる前で、沢田文江親子を学校に集合しなかつたことを理由にどなりつけた上、校外学習に参加することを拒否して帰宅を命ずるに至つた。沢田文江は、父親のない恵れない家庭の児童で、母親も普段仕事に出ていてこういう時でないと一緒に遊んでやれないと、この校外学習を楽しみにしていたのであるが、母親は原告に拒否されたため非常に憤慨し、学校に文句をいつたりしたが、その後間もなく沢田文江を他に転校させるに至つた。(なお、切符は、当時沢田文江の分も買つてあつたのではないかと窺える点があるが、若し買つてなかつたにしても、発駅ないしは着駅において精算することは勿論可能であつて、切符のないことを理由に参加を拒否するのも妥当な処置であつたとは言えない。特に、母子家庭の子供に対するものであつて見ればなおさらである。)

(二) 昭和二七年一〇月下旬頃の放課後の午後三時頃、宝木塚小学校の職員の愛好者が、同校運動場でテニスの試合をしたことがあつた。原告が他の職員と対戦していた時、審判に当たつていた峰好輝教諭が、相手の打つた球を「セーフ」と宣告した。原告は「アウト」であると主張して互に言い争いとなつた。そして峰教諭が「年寄りで目が見えないのではないか。」と言つたため、原告はカッとなり「この野郎ぶつ殺すぞ。」等とどなると同時に右手にラケツトを振りかぶりながら峰教諭を数十メートル追い回したので、峰教諭は学校の校舎に逃げ込んでしまつた。このいざこざのため同日のテニスの試合は中止となつた。

(三) 同月下旬頃、原告は、宝木塚小学校四年の児童を引率して新宿御苑に校外学習に行くこととなつていた。その出発の直前である午前八時頃、同校職員室で、同校の事務助手をしていた塚田満子(当時一七才)が原告のところにお茶を運んできた。原告は、そのお茶が非常に熱かつたので、「出掛ける前になつてこんな熱いお茶が飲めやしないじやあないか。」とどなりつけるやいなや、左肘で塚田助手の胸をついたため、同助手はその場に尻餅をついてしまい、立ち上がろうとするところを再び左手で同人の左眼部を殴打したため、同人は又もやその場に転倒してしまつた。そして右の殴打行為によつて塚田助手は治療約二週間を要する左眼打撲内出血の傷害を蒙むるに至つた。その後、校長のとりなしで原告から塚田助手に対して治療費として金三〇〇円を支払うことになつたが、原告はその支払いをする時、「なんだこれつぽつちですんだのか。」と言つたこともあつた。

(四) 同年一一月頃、原告は、宝木塚小学校の自分の担任する四年一組の教室で、「掛礼先生の組が好きな子供は手をあげろ。」と言つたところ、担任児童の辻野晴子と西野克子の両名が「ハイ。」と答えて手をあげたので憤激し、「一組におけないから二組に行つてしまえ。」とカバンを持たせて廊下に追い出してしまつた。二組担任の掛礼貢教諭が、「あなた達は一組に決つたのだからわがままをいわないように。」と言つたところ、二人の児童は、「こわいので帰らない。」と答えた。掛礼教諭は、「私があやまるから。」と言つて二人を連れて原告に取りなしたので、原告も二人を引き取るに至つたが、その間一〇分位授業が中断した。

(五) 昭和二八年二月一日頃東京都教育庁指導部が宝木塚小学校の授業の模様を参観することになつていたので、前日一月三一日の職員朝会の際、同校校長生沼武雄が、参観に供する算数の授業を希望者を募つたところ、原告が自分がやると申し出た。しかし、生沼校長が、「須藤君が申し出たが外にないか。」と何回か希望者の有無を尋ねたため、原告は、校長が暗に自分の申し出を喜ばないで他の教諭に参観授業をするように示唆しているものと解して怒り出し、「おらやらねえ、明日は子供を連れて宝精工へ見学に行つちやう。思いつきばかりやつてやがる。教育委員会に言つてやる。」とどなり散らして会議を混乱させてしまつた。

(六) 昭和二八年三月一〇日は、宝木塚小学校で国語の標準テストが実施されることになつており、テストの監督は、各学年毎に各クラス担任の教諭を交換してやることになつていた。ところが、当日の職員朝会の席上、原告は、にわかにテストの実施に反対すると共に、「自分の学級はテストをやらない。若しどうしても実施するなら校長か校務主任がやれ。」と主張してゆずらなかつた。そこで、原告担任の四年一組のテスト監督は、轡田生三教頭が、四年二組の監督は鈴木のぶ教諭がやることになり、同教諭が四年二組の教室に赴いてテストを始めようとしたところ、原告がやつて来て、「自分がやる。」と言い出した。鈴木教諭は、「校長の命令だから私がやります。」と言つたけれども、原告は、「そんなことを言わないであんたはどけどけ。」と言つて肩を押して鈴木教諭を廊下に突き出してしまい、同教諭からテストの監督を取り上げてしまつた。

(七) 昭和二八年四月一七日頃の午後、原告は、宝木塚小学校の校庭で、自分の担任する児童の図工の写生の指導中、これを見ていた同校三年生の武藤隆男に対して些細なことから怒り出し、同人の襟首をつかんで二、三米引きずつた上、拳固で同人の頭を数回殴つたり、或いは指先で同人の顔をはじく等の暴行を加えた。

(八) 昭和三一年六月五日頃の午前八時頃、大正小学校の正門附近において、開門と同時に大勢の児童が校内に駆け込もうとした時、二、三人の小さい児童が転んだので、これを見ていた原告は、六年生の入江誠が押したからであると思い同人をつかまえて、「そんなことをしちやあ駄目じやあないか。」と叱りつけ、さらに手で同人の頭を数回殴りつけた。

このため、同人は泣きながら家に帰つてしまい、耳が痛いと言つて数日間学校を欠席するに至つた。

(九) 同年一〇月二二日頃、大正小学校の校務主任真下政安は、洋服屋から原告宛にかかつて来た電話を取り、「原告は今授業中であるから急用でなければ昼休時間に今一度電話をするように。」と言つて切つた。そして授業が終つて出て来た原告にその旨を伝えたところ、原告は非常に憤激し、真下主任に、「何故すぐ取り次がなかつたのか。」とどなりつけ、それをなだめようとした校長藤井慎一に対しても、ネクタイの結び目を掴んで椅子から引き起し、「人権じゆうりんだ。都へ行こう。都へ行こう。」とわめき散らした。

(一〇) 昭和三一年二月頃の風の寒い日、教材商人秋葉みうらが大正小学校の職員室に入つて来たが、原告は、同人が入口の扉を完全に閉めなかつたと言つて怒り出した揚句、手で数回同人の頭を叩いたりしたため、同人は泣きながら帰つて行つてしまつた。

(一一) 昭和三二年二月五日頃、原告は、風邪をひいて出勤していたが、大正小学校の職員室に入室して来た同校用務員の鈴木のぶが、入口の扉を完全に閉めなかつたと言つて怒り出し、「寒いじやないか。」と言つて電話をかけていた鈴木用務員の受話機を取り上げて電話機にかけた上、右手で同人の首筋を掴まえ、左手で同人の背中を押して廊下に突き出してしまつた。

(一二) 昭和三二年の春の日の昼食時間頃、大正小学校の給食調理室にやつて来た原告が、何か一言二言言いながら、そこに並べてあつた給食用のハムをつまんで口に入れてしまつた。これを見た給食作業員の小木曽千枝子が、「今日はハムの数が足りないので待つてくれ。」と言つたところ、原告は、「なまいきだ。」と言つて右の平手で小木曽作業員の左耳のあたりを叩いた。これを見た他の給食作業員が、小木曽作業員に、「早くあつちに行きなさい。」と助言したので、小木曽作業員は給食調理室を飛び出して逃げて行つてしまつた。

(一三) 昭和三三年四月一二日頃、原告は、大正小学校の階段のところを掃除していた四年生の女児に、六年生の野崎栄子が「ツバ」を吐きかけたということで怒り出し、野崎栄子を階段から職員室に押し入れるや、「お前はそれでも六年生か。」と言いながら平手で同人の左側頭部のあたりを二回殴打し、ふらふらする同人をさらに元に引き戻してさらに一回殴打した。

これを見た野崎栄子を担任する森田教諭が中に入つて止めようとするのを払いのけ、さらに井島竹雄教頭が止めようとするのも突き飛ばしたりした。

野崎栄子は、この暴行により頭痛耳痛を伴う頭部打撲傷を受け、この事件は、被告委員会に報告され、原告は、昭和三三年五月一日懲戒として戒告処分を受けるに至つた。

(一四) 昭和三三年六月下旬頃、原告は、大正小学校の大内顕成教諭が授業中、その教室に何のことわりもなく入り込み、「流し場をよごしたのは誰だ。」とどなつた。大内教諭が流し場を見ようと教室の外に出たところで、原告は、再び「お前の組の子供は不良だ。」とどなりつけた。

(一五) 原告は、図書館の仕事を任されていたので、非常な努力を重ねて運営していたところ、昭和三六年三月一〇日の大正小学校の創立四五周年記念式典の宴会場として図書室を使用することが職員会議で決つており、別段その隣にある図書準備室を除外する旨の話は出ていなかつた。当時、原告は、図書準備室に机を置いて常時使用し、椎茸の原木を置いて栽培をしていた。ところが、式典当日手伝いに来ていた児童の母親達が、図書準備室を宴会場設営のために臨時の物置き場所として使用したことから、原告が怒り出し、母親達二、三〇名に対し、「俺の許可も受けないで何故図書準備室を使つた。この売女ども、お前等の産んだ子供だから、ろくな餓鬼はいない。」「餓鬼も餓鬼なら親も親だ。」とどなつて母親達を侮辱した。

(一六) 昭和三六年四月二五日頃の第三校時に、大正小学校の松沢秀俊教諭が、図書室で四年二組の読書指導をしていた。当時図書室に入る時は、皆手を洗うことになつていたが、右第三校時には、図書室前の流し場の水道の蛇口から水が出ており廊下にも水が漏れて濡れていたため、原告は、図書室の入口から松沢教諭に対し、生徒達の面前で、「この月給泥棒、床のくさることがわからないのか。馬鹿野郎。」などとどなりつけて侮辱した。

(一七) 昭和三七年三月二五日は、大正小学校の卒業式が行なわれることになつていた。荒城義雄教諭は、当日朝、渡辺久恵という児童から学校図書館に返すべき本を預つて職員室の自分の机の上に置いていたが、式の準備に忙しく、講堂で、卒業式の時に使用するエレクトーンの配線をしており、その時には、既に相当多数の父兄が講堂に集つていた。そこにやつて来た図書館担当の原告が荒城教諭に対し、児童より預つている本を即刻返却するよう要求した。同教諭は、式の遅延するのをおそれて、この配線がすむまで待つて貰いたいと懇願したけれども、原告は、これを聞き入れず、多数の父兄の面前で、「この野郎、待てねえ、直ぐ本を返せ。」「こんな式など遅れてもよい。」などとどなりつけた上、同教諭の頭に手をかけてその場に押し倒した。それで同教諭が校庭に出て行こうとすると、原告も追つかけて来て、「大正の先生はだらしがない。だから入谷の子はだらしがないんだ。」「特に荒城君の組はだらしがない。」などと大声で罵つていた。

(一八) 昭和三八年三月六日、原告が大正小学校の職員室の机の上にしまい忘れて帰つた原告の手提金庫を、居残つていた今井貞夫教諭が気付き、盗難にかからないようにと自分のロッカーにしまつて帰つた。翌七日、今井教諭は自分のロツカーを開ける機会がなく、手提金庫の件はすつかり忘れており、原告もその日はそのことについて誰にも何とも言つておらなかつた。ところが、翌々八日の第一校時開始直後、原告は、いきなり、全校生徒に聴える校内放送で、「先生方よく聞け、俺の金庫を盗んだ奴がいる。外部の者の仕業ではない、先生の中に泥棒がいる。出なかつたら警察沙汰にしてやる。」とどなつたところ、金庫をしまつたのが志田時晴教諭であると勘違いをしていた荒城義雄教諭より、児童を介して、手提金庫は井島竹雄教頭か志田教諭が知つていると伝え聞いたので、直ちに井島教頭の授業をしている六年一組の教室に赴いて、児童の面前で、「おい、この馬鹿野郎、泥棒野郎。俺の金庫を匿したろう。」とどなり散らしたが、同教頭が知らなかつたので、再び職員室に引き返し、更に校内放送で、「志田先生すぐ降りて来い。」と放送をしているところに、今井教諭が、「須藤先生が忘れて帰つたからしまつておいた。」と告げて、ロツカーから金庫を取り出して返却した。しかし、原告は、「俺は忘れない。誰が出したんだ(原告のロッカーからの意)。」などと校内放送のスイツチを切らないままどなり続けるので、三弊知子教諭がスイッチを切ろうとしたところ、「馬鹿野郎、切つてみろ、切つたら承知しないぞ。」と同教諭の腕を掴んで威拍し、さらに教室から帰つていた井島教頭が、原告に対して、「自分で忘れておいて。」と言つたため、同教頭の胸のあたりを突き飛ばしたりした。このようなことで、全校の第一校時は、殆ど不能になつてしまつた。

(一九) 昭和三八年四月一九日の第五校時、大正小学校の五年三組の児童が図書室で、担任の大内顕成教諭の指導で自由読書をしていたところ、原告が、「保科、保科はいるか。」と大声をあげながら図書室に入つて来て、同組の児童保科修に対し、一枚の図書貸出カードを示しながら、「これを書いたのはお前かこのざまは何だ。」と叱りつけ、いきなり同人の胸のあたりを掴んで引き寄せた上、平手で同人の頬のあたりを一回殴りつけた。

(二〇) 昭和三八年五月二二日の午後一時五〇分頃、大正小学校の職員室前の廊下を小走りに走つていた六年生の児童今泉英邦を見つけて呼び止めた原告は、その場で同人を叱りながら拳固で同人の頭を数回叩いた上、職員室に連れ込み、さらに数回同人の頭を叩いたりしていた。これを見た勝俣長登校長が、今泉を取り返そうとしたところ、原告は、「渡すもんか。」とどなりながら、校長の腕のあたりを突き飛ばしたりなどした。

右の内(二)、(一二)、(一三)、(一五)、(一七)、(一八)、(二〇)の各事実は、直接の処分事由となつたもので処分説明書に記載されており、その他の事由は処分の際情状として考慮されたもので、人事委員会に対する不服の段階で審査の対象となつたものである。

右認定に反する甲第三号証、乙第一号証、第六号証の各記載部分並びに原告本人の供述は信用できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

以上認定の事実関係からすれば、成る程、各事案毎にその発端となつた事情については一概に原告だけを責むべきものばかりではないけれども、原告の行為たるや、殆ど誰彼の見境もなく暴力を振つたものでその数も多く、殊に児童生徒を殴打するに至つては、既に教師としての適格性を欠くものといわなければならないと共に、何ごとにも独善的で他の同僚との協調性に乏しく、屡々暴言を吐いて他を侮辱したりして、正常な学校運営を阻害することの多かつたことに鑑みれば、原告が、誠実にその職務に精励していたものであるとは到底言うことができない。

従つて、原告を免職処分に付するについて、被告委員会が処分事由に関する事実を誤認したと肯認することはできず、又、処分の程度を誤つたものであると首肯することもできないから、被告委員会の本件処分は結局のところ適法なものといわなければならない。

よつて、免職処分の取消を求める原告の本訴請求は失当として棄却すべきであり、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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